2006年10月 9日 (月)

0012:第4回日本グランプリ(1967)

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 さて、前年度ポルシェを破った67年日本GPではプリンスは日産と合併し、あらたに日産チームとしてR380をよりアップデートしたR380-IIを持ち込みました。前年プリンスチームの一員だった生沢選手はプライベート参加で#8のカレラ6を、また滝選手は前年度のマシーンをノーズフィンを付けるなどして#6のナンバーも変わらずに参加、さらに前年のシェルビーコブラからやはりカレラ6に乗り換えた酒井選手#7も加わり、R380-IIが4台、カレラ6が3台の対決となりました。
68carrera6  生沢車#8、滝車#6です。生沢車のノーズとクォーターピラーにはトレードマークの丹頂鶴のマークが入り、また、ペプシコーラ・VAN(メンズファッション)のステッカーも貼られ、当時の人気の程が伺えます。モデルはどちらもエブロ製で、やはり生沢車から品切れとなりました。出来れば、滝車はノーズフィンを外した前年度型が是非欲しいところですが、エブロさん、ご検討いただけないでしょうか。
68r380  対する日産R380-IIは、高橋・砂子・大石・北野の4台で、#10の高橋車が生沢車と演じたトップ争いは今でも語りぐさです。また、生沢車と酒井車のカレラ6同士の競り合いから、30度バンクで酒井車がクラッシュしたことも忘れられないエピソードです。なお、このレースにはローラT70が2台レギュレーションに合わせてウインドウを建て増しして出場したこと、ピート・ブロック設計のヒノ・サムライとダイハツP-5がレース出場が叶わなかったことも書き添えねばなりません。なお、この日本GPの記事が載った「CARグラフィック」67年7月号が現在まで連綿とわが家に並ぶCG誌の「お買い初め」となりました。

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2006年10月 8日 (日)

0011:第3回日本グランプリ(1966)

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 しばらくルマンシリーズが続いてしまいました。それ以上に僕をレースカーに引き込んでしまったのが日本GPです。特に、プリンス(現日産)がR380を持ち出し、ポルシェカレラ6が持ち込まれての66年GPは相当な起爆剤でした。
 いちばん後方の#6カレラ6滝車のモデルは出場車の1年後の姿(ナンバーは同じ)で、フロントノーズにフィンが付いています(エブロ製)。レースでは一時トップとなりながらもリタイアしてしまいました。
67prince  プリンスは優勝した#11の砂子車、カレラ6をよく抑えてプリンス優勝の原動力となった#8生沢車です。なお#8はリタイア、2位はブルーの#10大石車でした。どちらもエブロ製です。モデルはかなりの数が生産されたらしく、発売されてから数年経ちましたが今でもショップを探せば通常に入手が可能です。

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 2台のR380に次いで3位に入賞したのがトヨタ2000GT#15細谷車です。この当時は市販モデルでなくプロトタイプの状態でしたが純レーシングカーと言えるR380、カレラ6と共に走りました。こちらはレア車に強いQモデル製です。まさかこういう車両がミニカーに再現されるなんて当時は思いもよらなかったことです。実際の市販車とはフロント回りや後ホイールアーチなどが異なっています。

67shelby  もう1台のヒーローはシェルビーコブラディトナクーペ#21酒井車でした。レースではいい成績は残せませんでしたが、GTシリーズのチャンピオンカー(前年のルマン出場者そのもの)が持ち込まれた意義は大きく、「ストレートでの加速は圧感」という記載が残っています。実はこのモデルが「あるのはわかっていても入手困難」で、手許に入荷するまでこのコラムを書くのを待っていたのです(京商製、オークションで入手)。本車のルマン仕様やGTシリーズ仕様はよく見かけますがこの日本GP仕様を発見したときは大喜びでした。

06japgp  実はいま休日当番の最中です。ところが3連休の中日で、患者さんはサッパリなのです。おかげでF1日本GP生中継もしっかりと観ることができました。
 シューマッハ、残念!また、スーパーアグリ、2台完走おめでとう。生中継はやっぱりいいですね。

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2006年5月30日 (火)

0006:'69日本GPの出場者

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 かつての日本グランプリの最終回が'69でした。前年度の雪辱を期すトヨタが真っ先にDOHC5リッターV8エンジン搭載のトヨタ7をデビューさせ本番にそなえました。また同様に滝レーシングチームはポルシェ本社の息もかかっているとウワサされた917にワークスドライバーのシフェールが、また908には田中健次郎を配しました。迎え撃つ日産勢は昨年度のR381+R380の体制からDOHC6リッターV12を搭載したR382を登場させたのです。


Jpgp69b  日産のR382は4台、写真の(21)は黒澤元治がドライブし、(20)は前回のウィナー、北野元に託され、結果的には圧勝のワンつフィニッシュを飾りました。同年代のマクラーレンCAN-AMカーの影響を受けてはいるもののこの時代にこのデザインで日本のレーシングカーが出てきたのには驚きの一言でした。


Jpgp69a  個人的にはこちらのトヨタ7を応援していましたが結果的には(3)の川合稔が3位入賞、(5)の鮒子田はリタイアでした。レース序盤に川合がトップを走っていたもののシフェールの917に抜かれ、さらに追い上げてきたR382に先行を許すことになってしまいました。この型のトヨタ7は後日後輪後方のボディワークを省略し、大きなウイングを背負って日本CAN-AMを制しています。


Jpgp69d ポルシェワークスがシュタイネマン監督・エースドライバーのシフェールとともに来日し、オーナードライバーのパイパーが所有する917を滝チームで走らせました。準備不十分だったものの一時はトヨタ7を抜いてトップを走るなど、見せ場を作ってくれましたが地の利と1000ccの差があるR382には敵いませんでした。この型のショートテイル917は本来リアフラップは可動式ですが日本GPでは可動空力装置は禁止されていたため固定して走ったそうです。


Jpgp69c ヘルマン・田中健次郎のコンビで走り出してはみたものの田中の速さを認めたシュタイネマン監督は以後ヘルマンを待機にまわした、といわレましたが、最終順位は2台のR382・3台のトヨタ7・917に次ぐ7位に終わった3リッターの908スパイダー。以上のモデルはすべてEBBRO製です。917・908は今年になってからの発売で、これらが入荷したためようやくこのコラムが書けた、と言うわけです。いずれも劣らぬ出来映えで、当時の興奮が甦ってきます。こうした日本GPはこの'69を最後に幕を閉じます。オイルショックや公害対策に自動車メーカーが必死に立ち向かわねばならない時代だったのです。

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2006年2月19日 (日)

0005:第2回日本グランプリ(1964)の2台

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 昨日わが家に到着したミニカーをネタに1題。1964年、鈴鹿で第2回日本グランプリが開かれました。手前の車番1は、ポルシェ904カレラGTS(これが昨日届きました)で、式場選手が操縦した優勝車です。この時、国内で立ち向かえたのはプリンス自動車が出場させたスカイラインGT(4気筒車のボンネットを延長して直6を押し込んだ、いわゆる「スカG」の元祖)2台でした。ブルーの車番39が砂子選手の車、バックのCG(当時はCARグラフィック)誌に写っている白に赤いストライプの生沢車(車番41)は入手できずにいます。日本での自動車レースの創始期ともいえるころの2台です。これらはいずれもEBBRO製です。

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2005年12月30日 (金)

0002: 第4回日本グランプリ(1968)の出場車

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 現在、「日本グランプリ」と言えばF1GPのことです。私たちオジさん世代では中学生の頃開催されていたスポーツプロトタイプカーによるレースが思い浮かびます。日産(主体は旧プリンス技術陣)、トヨタの2大メーカーにプライベートの滝レーシングチームがからみ、雑誌「Autosports」などによる事前の車両開発のスパイ写真などでワクワクしていたのを思い出します。当時は1/24スケールのレーシングカーを作りまくっていた時期で、レースが終わるとテレビで映った画像をもとにボディをスクラッチビルドして走らせていたものです。
 写真はその最盛期、1968年の第4回日本グランプリの出場車の一部です。こうした往年の特定車のモデルが最近ようやく1/43のミニカーで入手できるようになってきました。

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黄色いウィングを背負った日産R381(20)は北野選手の操縦した優勝車。タキ・チームのカレラ10(28生沢車)、カレラ6(27)ともどもEBBRO製です。また、トヨタ7(2:福沢車)はQ-models製。赤い車体に黄色いVストライプのローラT70 MkIII(25:長谷見車)はMinichamp製です。

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